財団法人覚誉会の創設の動機と趣旨

徳川中期の享保年間、京都西陣において絹織物製造とその販売との一貫経営を家業として今日に及んでいる誉田屋(こんだや)「矢代仁」に明治、大正、昭和にわたって田中亀太郎(店名久七)という大番頭が存在していた。
田中は明治10年幼少12歳にして入店するや天性の聡明と緻密な頭脳、非凡な商才とをもって店務に当り、先ず絹織物の品質改善に乗り出し、遂にその研究を完成して以来、西陣絹織物の向上に尽くした。
また内にあっては矢代家の家憲を遵守、自から陣頭に立ちて奉公の範を示しつつ、社員一統の融和と協力とを得て業績を大いに推進せしめた。一方外にありては各種社会のため、神社仏閣のために力を注ぎ各所に貢献をした。
まことに矢代仁中興の柱石であった。
特に注目すべきはその篤実なる性格が店主より絶大なる信頼を受け、これに対しまた田中は主家への恩義を忘れず、主家に尽くさんとの感激はいつしか滅私奉公と化した。かの坊間散見する労使対立紛争等の雰囲気は微塵にも見出すことができなかった。然るに突如として不幸病魔の冒すところとなり、昭和9年12月遂に68歳の生涯を閉じた。勤続実に57年であった。
この主従相信一如の関係は洋の東西、時の古今を問わず淳風美俗の基盤となり、たとい時代の流動、思想の動揺、世情人心の遷移ありともすべてこれらを超越したものであった。
ここにおいて主家仁兵衛は故人生前の労に感激し、その遺徳を何かの姿によりて顕彰するとともに、この淳風美徳の精神を永く世に伝えんとの企志湧然たり。このときたまたまかねてよりの念願たりし社会恩への報謝の一齣として本財団法人覚誉会の設立を決意したのである。(昭和10年)

本財団の設立は以上の動機により、この主従の淳風美徳と感謝精神の発揚とにより、品性の陶冶、向上に貢献することにより社会に奉仕せんとして生まれたものである。
爾来本財団はこの線に沿うて活動、運営され今日に至った。

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